昭和44年08月10日 朝の御理解
御理解 第42節
「これほど信心するのに、どうしてこういう事ができるであろうかと思えば信心はもう止まっておる。これはまだ信心が足りんのだと思い、一心に信心していけばそこから、おかげが受けられる。」
そこからのおかげ。非常にこれは信心の一つの幅というかね、幅、広さというかそういうものを感じます。信心の程度程度に応じての事で御座いますから、いわゆるそこからと仰るのですから、もうきりがないです。そこからおかげが受けられる。だから誰々さんのようにならなければ受けられないという事ではないのです。ね。子供は子供なり青年は青年なり、壮年は壮年なりの信心。
勿論信心の年齢でございますけれどもね。そこからおかげが受けられる。だから皆が同じじゃない。例えば試験を受けましても小学校には小学校、中学高校大学と試験問題の内容が違います。ですから小学生に、大学生が受けるような試験問題が出る筈がございません。ですからそれぞれの過程において、お試しというか試験があると致しますと、成績が悪かったと。結局勉強不足を思うより他有りません。
決して神様は教えてもおらん所を試験問題に選びなさる筈がないからです。もう何回も何回も繰り返し教えておられる。そこからいわば試験をして下さるのです。それでその結果がおかげというまあ、点数の結果が出てくる訳です。まちょっと位おかげ頂かなければならない筈のが、例えば80点くらいは取ったと思うのに、もし50点であったり40点であったり落第点であったりと言う様な事になっておるとするとですね。
結局自分が、是は自分の勉強不足であったと。日頃ぼんやりして、習うておる事を迂闊にしておったと、分からせて頂く。そこから勉強が始められる。いわゆるそこからおかげが受けられる。ですから非常にこれは、幅が広いですよね。誰誰さんの真似をしなければならんという事はないのです。先生には先生、信者には信者。初心の人には初心の人にです、言える事なんです。
そこで私共はそこからのおかげを、一つ一つ積み重ねていかなければならん。そこからおかげが受けられる。ははぁたった是だけの、自分の思い方が変っただけで、この様なおかげになったと。たったこの位な事をしたのに、神様はこの様なおかげを下さったとね。昨日、久留米の佐田さんのお届けがござましたが、今度菊栄会の方達が、ご本部参拝を全員でなさいました。
全員じゃありませんでしたかね、東さんがみえておりませんでした、宮崎さんがおいでておりませんでしたから、いわば企画の方達(広前?)の菊栄会の方達がみんな行って下さったんですけど。もうそれは佐田さん辺りの場合はもう、本当にそこに一日でも二日でもお店をあけるという事は現在のところ、もう全然出来ない。出来るはずがない。普通の人間心で言うと。
けれどもそこを、まあ、信心で親先生のお供させて頂くという事でおかげを頂かれた。丁度、一年前の今度の(大安?)にもやはりおかげをその時にも、その時にはもっとひどい、まだ、佐田与物産がある時分」ですから佐田与のお店がまあ、浮沈の極みどこ倒産をするかしないかと言った様な厳しい時で御座いましたけれども、あちらにおいでられた。ご本部参拝をされた。
もうそれはその佐田さんがおられないところを縫うようにして、当時大変な山場でございましたから、電話がどんどんかかった。電話でも聞いておりゃ飛行機でも帰らなければならないと言った様な問題の中を縫うように神様がその事に結局、予定よりも一日遅くなると言った様な事になっておりましたから帰られた。そこには本当にもし、自分が忙しいからというてお参りをしていなかったら、どういう結果になっておっただろうかと言う様な、おかげになって現れた。
もうそういう体験を持っておられるときでしたから、この度もはあ、忙しいといえばきりがないのだけれども、ね、お供させて頂くという事に腹を決められてのお参りであった。丁度、まる二日間おられなかったですね。その忙しいお店がですね、佐田さんがおられない間は、もう実に閑散としたものであったということです。別に私は、責任者の佐田さんが私がおらんけん今うち買うといて下さいといったわけでも何でもないのにですね、お店が閑散としておる。
さあ、予定よりも今度は一日早く帰って来られた。半分四名か五名かが岡山から、帰られましたから、予定よりも一日いわば早く帰られたようなわけでしたけれども、帰られた途端にお店が忙しい。おんなさらなきゃ出来ないといった要件がある。もう本当にいかにその佐田さんの上に神様の働きがあっておったかと言う事が、あっておるかという事が分かる。まあその様に日頃の信心がいわば、現れておる。答えがまあいわば見事にいわばその、まあ及第点を取られたと言った様な感じなんです。
なら佐田さんだけでは有りませんけれども、それで例えば形の上においては同じ事をしておったけれども、自分がおらなかったから、こういう困った事が起った、まあ困った事が起ったと言う様なお届けはありゃしませんけれどもです、ね、そういうはっきりした、成る程と合点のいくような、おかげになっていない人達があるとするとです、やっぱりこれは考えなければなりません。
そこんにきですね。私はこう「これ程信心をするのにどうしてこの様な事が出来るであろうかと。」いう所はですね、合楽の方達はここにまあ朝参りをなさっておられる方達。まあ大体信心の程度というものが揃っておられる。まあ菊栄会なら菊栄会という方達の信心の足並み、信心の程度も揃うておると。という所でだから同じ試験問題が出たと。で80点の人もあれば50点の人もあれば落第点という人もあるという事。
そりゃここん所のこれ程信心するのにというのは現在の合楽の方達の場合、本気で信心の稽古をしておられる方達の場合です。どういう事でなからなければならないかというのは、朝参りが出来ておりますとか、お日参りが出来ておりますと言う様な事ではないと思うです。ね。これ程信心するのに、これ程毎朝毎朝参りよるとにという事じゃない。もう、毎朝参りよるといったような事なんかはですね、答えになっていないて。
これほどという事ではないて。最近私が思わせて頂くのに、ここでは成り行きを尊ぶとか、大切にするという事を言われますけれども、そうした一つの自然との対決とでも申しましょうかね、それは厳しいまでのその対決です。毎日がその対決においてです私共がどのような、対決の仕方をしておるかという事が、私は問題だとこう思うのです。その事をどれほどに大切にしておるかと。
毎日お参りをしよるから、これ程の信心と言う事ではないて。その後が問題なんだと。これはまあ私の例をもっていうなら、こうして午前中の奉仕をさせて頂きます。暑いとやっぱり術ない。術ないから、ちょいちょい立って控えの方に部屋が冷えておりますから、そこへ行ってから冷たい涼しい風に当たらせて貰う。そういう事を繰り返しておったのではですね、一つも有り難くなれない。
私はここのご結界に例えば7時間なら7時間という奉仕を許されておかげを頂いておるその中に、何回も立って、例えば暑いからといって涼しい部屋にたって、まあ合間合間を見てから、立っていくような事ではですね、ただ12時まで奉仕させて頂いた。やれやれ今日は一日、いや午前中の御用を無事努めさせて頂いたようであるけれどもです、結果に於いて、有難いというものは出ていない。ね。
昨日なんか暑い、暑いから立たせて貰おうかと思うた。思うたら次々とお参りがあった。いよいよ暑くなって来た。所が背中をだらだら流れる汗を感じておったら、今度は立つのが勿体のうなって来た。もうあちらのご結界にちょっと用があるから普通ならば、あそこにまででも立つ事で、私の足はいくらかが楽になる。けれどもですね、そこまで立つのが惜しい事になってきた。
誰か来た時に、まあ頼もうと言う事になる。ね。結果はどういう答えが出ておるかというと、本当に今日も御用にお使い回しを頂いて本当にありがたかったというその有り難いというものが心の中に感じられる。誰も知らないでしょう。私が立ってクーラーの所に行ってから、涼しい涼を取っておると、別にそれは大した事でもなかろう様にあるけれども、私は結果においてですね。
結界において有り難いというものもなからなければ、生き生きしたものもないとするならばです。これはこれ程信心するのにといえない。ね。いわゆる厳しい自然とのひとつの対決に於いてです、そのそこの所を頂き抜くか、やっとかっと頂くか、そこんところを落第するか、答えが出て来て。例えば佐田さんの場合なんかはそう言った自然の働きというものとのです、対決においてです。
その場その場をいかに大事にされたかという、はぁ失敗せんでおってよかった、お供させて頂いとってよかったと。言う様な答えが出ておったに違いない。そこに私は有難い、いわゆる形の上に現れておるおかげが、そこではっきり感じられる様にです、ね、ただ私と一緒に同道として、最後までいておる、三人の方が残られました、行かれたからというてです、それは一人一人の事、どういうおかげを受けられたかは、一つも聞いてもおりませんけれどもですよ、ね。
本当にこの度の旅行によって得るものがあった、おかげを頂いた、やっぱりあそこをもう一足伸ばしていったおかげで、こういうおかげを頂いて帰って来た、というものがなかったら、これはただついて来た、というだけに終わるのではなかろうかと。それでいて私は親先生の手にもなり足にもなって。これ程の御用をさせて頂いておると言う事は、意味の無い事になって来る。
いうならば形の上においては、佐田さんよりも沢山本当の御用をさせて貰い、沢山の金を使っておるわけなんですけれども、そこにだから佐田さんとの、私と最後まで行動を共にされた、三人の方達との信心の内容というものが同じではないから、それはそれぞれだけれども、結果においてはおかげが出ておらなければならない。形の上に現れておらんなら心の上に。ね。出てこんならん様になっておると。答えが。
そこでです例えばなら、是はまあ私の例をとりましたがです、ね、10時に下がらせて頂いて、はぁまあやっとかっと12時の時間が来て、まあきつかったけれども眠かったけれども、まあ勤めるだけは勤めさせて頂いたと、言う様な事であってはです、ね、答えが出ていない。有難いと言う事になっていない。それなら私はですね、これ程信心するのにとも言えないしまた、私はそこからです。
今日の御用奉仕は神様がご覧になったら、歯がゆい思いをなさった事であろうと、是ではならんとそこからの信心を、私は目指させて頂くというそこから、そこからおかげが受けられる。お互いがそこからの、おかげを受けなければならない。全身全霊と言う事をもうします。信心をさせて頂いておる。その全身全霊がです信心に向きをおいておる。例えば現在の合楽の方達の場合、合楽の例えば朝参りをなさっておられる。
日参りをなさっておられるという方達の場合、これ程信心するのに、これだけ信心して朝も参ってみたばってん、おかげが頂ききらじゃったと、もしいう事があるならばですね、いかに全身全霊を信心にいわば教えを頂いて、教えを行じる事に例えばお参りをしたその後に、私がいつもここの流儀の様に、いわせて頂く所の自然との対決に、いつも敗北しておったからだというより他にないです。
成り行きとの対決。その対決においてです、ただ対決しただけではなくてです、それが対決した事がありがたい。おかげを頂いたと、ここんところが分からせて頂いたといったようなです結果答えというものが、出ておる私はおかげを受けておるならばです、それに神様が答えて下さらない筈がない。だからこれはなら朝参りが出来ておるという事だけで、いっぱしの人があるかもしれません。けれども現在の合楽ではです。
朝参りが出来ておると言う事ではなくてです、朝参りによって信心の稽古をさせてもろうてです、ね、愈々の生活の現場においてから、ね。そこの所の対決がです疎かになって居る様な事はないだろうかと。必ずなっておるなっておるから答えにおいて、有難いというものになっていない。その有難いものに繋がるおかげ。そこで例えばいうならば、形なら形の上において、お日参りならお日参りが出来ておるとね。
そこんところで、これ程信心するのにと言う様なものをもし、いささかでも感じるとするならばです、それはお参りは出来ておるけれども、成り行きとの対決においては、まだ本当のものではなかったと、分からしてもろうてそこからの信心。その事を愈々大切にさせて貰う信心。そういう信心にです。合楽で教えを頂いておる方達の場合はそこん所に取り組んでいかなければならないのではないかと。
今日42節からそれを感じるです。日々の信心のその稽古そこん所のおかげを頂いていく所にです、有難いという答えが日々に出てくるとするとです、朝のお参りは有難いという思いでお礼参拝お礼心。ね、お礼心を持っての受け物をもって、信心の稽古をさせて貰う。大変信心の稽古のゆとりが違うてくる。ね。こうやって一生懸命お参りしよるけれども、このことばおかげ頂かんならんから。
ここんところを救うて頂きたいからという、願いという事で、頭がいっぱいであるところに、全身全霊になれないものが、あるのではないかとこう思う。日々さまざまな問題との対決、いわゆる難儀との対決と、いうてもよいでしょう。対決においてです、そこんところを辛抱しぬかせて貰い、または元気な心で受けさせてもろうて、はあ今日もおかげを頂いてよかったと、ね、成り行きがそのまま、自然にその働きそのものが、神様の働きと悟らせてもらえば、ね。
成り行きその物が、神様が私に求め給う修行であると、分からせて頂ければ、それを合掌して受けていくというか、元気な心で受けていくという事以外にないのだけれども、それが受けられないという所に、これ程信心するのにと言う様な心が、どこにかのさばっておるわけなんです。これ程信心するのにどうしてこんな事が。そこん所を一つ本気できわめていきたいと。それは信心の過程において一人一人違いましょう。ね。
それは小学校である人もあれば、中学校の人もあれば、高校大学という人もあるのでございますから、試験問題は勿論違います。ね。ですから誰と同じ、例えば先ほど佐田さんの例をとりましたが、ね、例えば文男先生なら文男先生が例えばもう、神様から私は神様から頂いておると思うのですね。神性という。これはひとつの神格だと思う。だれも文男さんに先生ちいわにゃならんと言ったものは誰もおらん。
いつの間にか誰かが先生をつけるようになった。いわば一遍に一段一段とこう仰るように、一遍に先生にはなれない。そのもう先生になっておる人がです、もし佐田さんと同等であったら、佐田さんはいわば甲の上をもらっても、文男先生はそれは当たり前そんくらいな事は。と言う事に成る様にですね、勿論限りなくそこん所を矢張り信心の御育てを頂いて小学校に、中学高校という風にですね、まあスムーズな信心の過程を通らせて頂かなければなりませんけれどもだから一様には参りません。
いわゆる学校に通っておる年限が違う年数が違う。ね。ですからそこん所を一つまあ腹に入れておいてそして是は私なりにです、ね、本気での信心の稽古というのは本気で朝参りをするという事だけではなくて現在の場合、合楽の場合、ね、その後にあるもの、起きて来る事、そういう事柄と本気で対決させてもらう。対決の仕方がです悪いと有り難いも何も伴わない。ただやっとかっと対決したというだけ。
または失敗しただけ。けれどもそれを本気でです、対決して行こうと言う所にその事の問題というか、対決するその事柄がです有り難いものになってくる。理屈抜きにして有り難くなってくる。そういう時には私は愈々有り難く対決した時であり、愈々成り行きを大事にした時である。それを皆さんの場合は、生活の現場でそれをなされていかなければいけない。そこから私はおかげが受けられん事はない。
もしそこからおかげが受けられんなら、もう一遍その事の対決のし具合というものをです、確かめてみなければならない、お取次ぎを頂いて願っていかなければならない。という風に私は今日は42節を頂くのです。これ程信心するのに、どうしてこういう事が出来るであろうかと、思えばもう信心はとまっておる。その所がですね、留まっておるという事にすら気が付かないでおる人がある。ね。
これでは、生き生きとしたおかげが展開して来る筈がない。ね。自分の信心が留まっておる、例えばそう言う様なものが内容にちょっとでもあるとするなら、留まっておる。これはまだ、信心が足りんのだという信心の工夫が、一工夫も二工夫もなされていかなければならん。その工夫される所からそれをそこから、とこういう。信心一心に信心していけばいわゆる、全身全霊をその事に取り組ませて頂けばです。
そこからおかげが受けられるという、そこからのおかげをです頂いていかにゃいかん、そこからというのは、いうなら、全部一人一人に違うという事。ね。それは信心の過程なのですから、ね、ですからそこからの信心の、いわば成長を願わせて貰うという意味なのです。そこからそこからばっかり言って、そこからの信心の成長が願われないならば、おかげの成長になる筈がありません。
しかもそこにお互いがそれぞれ、ね、本気でのいわば全身全霊を持っての勉強でなからなければならん。せめて日々まあ百点満点とはいかなくても、どうやらこうやら及第点をですね、取っていきたい。そんなに思います。所がもう中学校、これは小学校の時に習うた信心。と言う様な所にですらまだぐずぐずしておるなら、結局もういっぺん小学校からやり直しと言われても仕方がない。ね、
信心というものは私はそういう風にですね頂き、42節この42節は非常に今日は私は幅が広いという風に申しましたですね。それは信心のそれぞれの過程のことを意味しておるものでございました。だから誰の真似彼の真似じゃないですけれどもです、それぞれの信心においてです、日々取り組ませて頂くひとつの問題と言った様なものに対する取り組み方。しかもそれが本気で全身全霊を持ってその事に取り組めばです。
例えば私がもう立つ事が馬鹿らしくなってくる。その問題をおろそかにすることが馬鹿らしくなってくる。その問題が有り難くなるところまで頂かせてもらおう。というわけでもないけれども、有り難くなっておると。まあ言う結論が出てくるわけなんですね。そのとき初めて私は一心の信心をしていけばと仰るそこに初めて一心の信心が出来てという事がいえるのじゃなかろうかと思うですね。
どうぞ。